希望について、結論のない話
何をしても何にも実らないように思える。決して死ぬことはない海で溺れているような気分になったとき、わたしは日記を書きます。
そんなときによくぶち当たるのは、なぜわたしが生きているのかという疑問です。先に結論を書くと、生きている理由はありません、あるいはわかりません。以上・・・知ってるって? そうでしょうね。ですが、わたしはそのことを考えつづけることをやめられません。
生きることは、「単なる生活」の連続であり、そこにドラマやストーリーなんてものはありません。食べて、寝て、子どもを育てる。これだけが人間のする最小限のことで、これが「単なる生活」だとわたしは考えています。 (※子どもを育てる、というところは家族と過ごす、あるいは信頼のおける人のことを想う、でもよいです。) 今日もどれもしっかりできた(睡眠時間は足りないかな・・・)。だからいいんだこれで、十分生きているんだ、今日もお疲れ様、と自分に言い聞かせようとしていますが、どうも言葉だけが空回りして心から納得することができません。よくありませんか、こんなこと。わたしはほとんど毎日そうです。不安です。
それでどうにか、こうにかこのぼんやりとした不安から逃避する先を探すことになるわけです。わたしは、現実で向き合っていることがうまくいかないと、戦時中や戦前のことを羨ましがることがあります。生きることに必死で、死が隣り合わせ、毎晩の飯と寝るところがあればもうそれだけで豊かさを十分に感じられる社会。わたしはこれを(とひとくくりにするのは少し乱暴ですが)悪くない世の中だと思ってしまいます(ああどうか怒らないでください)。実際には、昔は理不尽で、不便で、過酷で、残酷な、時代であることは、歴史の教科書や戦記ものなんかを紐解けばをすぐにわかります。当時の苦難や絶望が実感として理解できていないから呑気な羨望が湧いてくるんだとは思います。...思いますが、どうしても羨ましく思えてしまうときがあります。
現代では食料も医療も家電も法律も、限界はあれども多くの人が不自由なく暮らせるようには揃っています。昔よりも遥かに正しい情報が数多く発信され、簡単に入手することができます。娯楽だってとても一生では遊びつくせないほど溢れていますよ。それは誰しもよくわかっています。ただ、その一方で生きることが当たり前、食べていけることが当たり前で、そこから何ができるかを求められる時代にわたしは感じられてしまいます。生きているだけでは、なにかいけないような気がするのです。自分の思い込みでしょうが、そう思えてならないのです。この感覚はわたしをとても息苦しくします。
以上のことから不安なく日々を生きることができるかどうかは物質的な充足だけが重要なのではないと考えられないでしょうか。もちろん生きるために最低限の物資はは必要ですね。縄文時代の生活のようになりたいとまでは思いません。では、この現代で、しっかりと、何か軸をもって不安なく生きるためにはどうすればいいのでしょう。
わたしの中での一応の結論は、日々「自然と」「希望が抱ける」こと、が前向きに生きるための要件ではないかと考えています。
希望?希望を抱くにはどうしたらいいのでしょうか?あたりまえなのですが、まずは自分にとって何が希望なのかを知らねばなりません。物質的に十分でない時代には、これがとても自然に見つけることができた。でも今はどうでしょうか(なんか偉そうな言い回しですね)。物質的に十分でない時代には貴重だったあらゆるすべてのことが当然で、取るに足らないことに思えてしまいます。つまり、現代には希望がないのではありません。自分の手で納得のいく希望を見つけるのが困難なのです。
そうか...。ではどうすれば...。 それがわかっていたらこんなことを鬱々と書いていませんね...。
補記
上記の考えに至ったのも最近読んだ本に影響を受けているだけかもしれません。以下、引用です。
個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと思考せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuation process)、あるいは自己実現(self-realization)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。
河合隼雄「ユング心理学入門」
専門的なことはよくわかりませんが、わたしが面白いなと思ったのは、この一節で「人生の究極の目的」が「状態」ではなく「過程」だと評しているところです。