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sakanaの日記

クリーニング屋でいくつも指摘されたスーツのほつれを見て

老人になど自分はならないと思ってしまいますが、そんなことはないのです。

何か新しいこと知識に触れて、それを自分の言葉で説明できるように噛み砕くこと、 簡単に言えば学ぶこと、に対する意欲が薄れているようです。 自由な時間や体力がなくなっているからでしょうか。 しかし、よく考えてみると、比較的時間のあった独身時代も別に何か意欲的に学んでいたようには 思えません。日曜日の夕方、自分の寮の部屋から沈む夕日を呆然と見続けた 記憶が蘇ってくるばかりです。

意欲が元から無いのか、失われているかは(自分で言い始めたのに)さておき、 この程度の知能で老人になってしまうのでしょうか。それが困ります。 このままでは何においても中途半端な、あわれでくたびれた老人に なってしまいそうです。「よれたスーツを着ていても、重要なのは能力だ」と、いい歳して 斜に構えていましたが、よれたスーツの印象どおりの不毛な人間になってしまいそうです。

あまり多くを望み過ぎてはいけませんね...。 くたびれた老人になることは避けられないでしょう。ただ、あわれにはなりたくはありません。 ここで言うあわれな人というのは、間違った知識に基づいて右往左往したり、浅い知識で何もかも知った気でいたり、 するような人々のことです。あわれな人は、好奇心と何かをじっくりと理解する忍耐力に欠けています。 人々とまるで他人の事のように書きましたが、悲しいことに、これは私です。 クリーニング屋が裏でどんなことをしているのか、まるでわかりません。 いつか湧いていた無限の好奇心はどこへ行ったのでしょう。あらゆる物事に感動し、不思議に思う愛知 の心はなくなってしまったようです。

ただ、何もかも知りたい、と思うのは結構なことですが、考えが飛躍しています。 人に与えられた時間が有限である以上、何もかも知ることはできないのです。

となると、あわれな人にならないためには、無知を知れ、という結論になるのでしょうか。 的を射ているような気がしますが、一方で具体的にどうしたらいいかを考えると理解の範疇からするりと抜け出してしまいます。

無知を恥じろ、ではないのです。とにかく学べ、でもないのです。 無知である自分を惨めに思え、というのも違います。 無知と付き合うのは難しいですね。

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