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sakanaの日記

冬晴れの日に

肌寒いが、雲ひとつない、冬晴れの日でした。昨日は9時には布団に潜り込み、睡眠はとれるだけとりました。それにバランスとれた食事を3食。体感的にも体調は悪くないようです。

今日は職場の人と職場の保健室(のようなところ)の職員さんに、それぞれ1時間弱、自分の近況を聞いてもらいました。 そこは、自分の話を無条件に、かつ好意的に聞いてもらえる場なのです。今年は何度かこんな場を設けてもらいました。 なんでこんなことをしているかって?それはまぁ...いいじゃないですか。なにもかもうまくいっていないように思えて、 つらいのです。こういった場があるのは本当に恵まれています。

今日もまた、仕事や家族のことでグズグズして、落ち込んでいるわたしの話を、ひとつひとつ丁寧に解きほぐす手伝いを していただきました。話していく中で、人と人との会話が興味深く、面白く、そして人生に必要不可欠なものだということを強く感じ ました。そして、自分の考えを自分の中に閉じ込めて反芻するのではなく、人に理解してもらえるような言葉や構成にすること、 そしてそれができるようになるために根気強く何度も考えを自分の外から出して、洗練させてやることをしなくてはならないというこ とに気付かされました。こう文字にしてみると当たり前で、改まって書くのも何か恥ずかしいですが...。

なぜ、私は自分の殻に閉じこもり続けてしまっているのでしょう。その殻が自分を苦しめて、なんの生産性もない考えを頭の中に循環させ続けているにもかかわらず。端的な回答としては、それが心地よくなってしまっているから、なのだと思いますが、一歩進んで、自分の考え方の癖を考えてみます。 (脳は強い刺激が好きで、ネガティブな感情は刺激が強いので、脳が求めてしまっていると「考えない練習」という本で読みました)

まず、自分のことや知識を話すことの恥ずかしさ、恐怖が強いです。何度も何度も自分の発言を思い出して、気が滅入ってしまいますね。 そして、自分の話や知識を流暢に話す人へ対して嫌悪感があります。何度もいろんな場で話したんだろうなあと勘ぐって、不快に感じてしまう。また、こうやって自分の知識を人に話すことで、この人の知識がまた整理されて、深まってしまう、わたしにはできない、という嫉妬や卑屈な感情も生まれてきます。会話は常に聞き手です。エピソードの再放送をうんざりしながら何度も黙って聞き入れました。こんなことをしていれば、 話すことへの自信も失われて、より避けるようになります。また、環境もそれを増長させたと思います。 学生時代の部活動は厳格な縦社会でした。とにかく自重することや周りと協調することを刷り込まれました。 ただただ、怒られるのが怖いのです。歳をとってからはずいぶんマシになりましたが、 一度ついた癖はなかなか治りませんね。とはいえ、これら考え方が身を助けることも少なくないので、なんとも人生は厄介です。

他にも、人と話して考えをすり合わせる大変さがわかっているので、めんどくさがっていることもあるでしょう。人と人との信頼や協力なんていらない、そんなものに頼ってはいけない、人間は自立していなければいけない、と強く思いすぎていることも人との会話を避けている要因な気がします。「どんなに突き詰めて話し合っても、人間同士は心情を共有することなどできない」、という幼稚な結論づけに思考が停滞している自分も見つけられます。・・・なにか君は得意になっているようだけど、そんな事実はみんな言わないだけでちゃんと知っているんだよ。 その考えから、根気強く、どう一歩踏み出すか、が重要なんじゃあないか。

ばらばらと思いつくままに書いてみましたが、まだ核心的でないような気がします。ここで息を吸って、単純に考えてみます。 ...わたしは見栄を張っているだけ、なのではないでしょうか。会話で考えをぶつけ合うのには、自分の日頃考えていることを曝け出す必要がありますね。自分の知識や思考力を総動員することが必要な場面だってありますね。この場を、わたしは明らかに避けています。馬鹿だと思われたくないからです。 わからないことがあれば、黙ります。わからないことだらけなので、黙ってばっかりいます。

だから...手始めとして、このホームページをはじめました。 遠回りかもしれません。でも、これまでの嫌な自分から少しずつ遠ざかっているようでとても楽しいです。

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