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sakanaの日記

ウェルテルとわたし

自分にとって大切なある本の記憶を少し整理することにします。

本の感想は、どう転んでも難しい気がします。もともとの材料から要素を抽出し、強調しなければなりません。 それは、りんごケーキを使ってりんごの良さを伝えようとするもので、誤解は避けられません。

わたしがゲーテの「若きウェルテルの悩み(以下、ウェルテル)」と出会ったのは高校を卒業する間際の18歳のときでした。 母の実家へ帰省した時のことです。そのときわたしは、大学受験に予想どおり完全に失敗したことで、意気消沈していました。 一方で、ようやくある形で自分の進路が決着することで、気が抜けて抜け殻のようになっておりました。

帰省しても特にやることなどは無いので、いつもはゲームや漫画などをプレイしていたり、家の周辺をぼんやりと散歩したりして 時間を浪費していたのですが、そのときはどういうわけはわたしは図書館で借りたゲーテの全集を持っていきました。 なぜゲーテ全集を選んだか。それは、思い出せません。

覚えているのは大学受験が終わったらとにかくじっくりと本を読もうと漠然と考えていたことだけです。 よく受験勉強を図書館でやっていたからでしょうか。勉強に行き詰まるとよく図書館の中を あてもなくうろついていました。本棚と本棚のうろつきながら、数々の本と比較し、自分の矮小さや無知を 嘆いてばかりいました。

ウェルテルの話に戻ります。 本当かどうか調査したことなどありませんが、晩年のゲーテが 「もし生涯にウェルテルが自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、 その人は不幸だ」と述べていたそうですね。わたしは、部分的にはですが、あります。 例えば以下のような文です。

「たしかに我々は万事を我々自身に比較し、我々を万事に比較するようにできているから、 幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。」

「僕たちはよくこう思う。僕らには色色なものが欠けている。そうしてまさに僕らにかけているものは他人が 持っているように見える。そればかりか僕らは他人に僕らの持っているものまで与えて、もう一つおまけに 一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人土地うものが完成するわけだが、実はそれは僕らの 自身の創作なんだ。」 (新潮社、高橋義孝訳) ※引用した本は、当時読んだ本ではなく後に買ったもの ※ウェルテルは書簡体と呼ばれる日記形式の小説なのですが、これは1771年10月20日のも 他にも5/17, 5/22, 7/1, 6/21なんかの日記も好きです。

ある一人の人間がこの小説を書き上げていることに驚嘆しました。 ゲーテがこの世の人間のあらゆる特性を知り尽くしている先生のように思えました。 実家に帰宅したのちに、ノートに鉛筆で気になったいくつかの描写を 書き抜きしました(この日記も当時のメモを参考に書いています)。書いているうちに抜け殻になって いたわたしの部分が少しずつ補填され、前向きに生きていこうといった思いが満ちてきた ような記憶があります。

ただ、物語の主軸となっている盲目的な恋の部分には、わたしは正しく 理解できませんでした。男子校で6年、部活動に打ち込んできた人間に恋をすると いうのがどういうことなのか、理解できませんでした。魅惑的な幻想を抱くにも 至りませんでした。わたしが共感していたのは、上で引用したような物語を支える 様々な人間の描写の部分です。

当時のわたしにはなにか価値観を転換させるようなことがおきました。 それ以来、習慣的に本、とりわけ小説を読むようになりました、という話。

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