第N義
絞りきった雑巾のようにクタクタになっていた。 2日、といっても家事育児をやりながらだが、休んだ。 休んだ、というより土日を過ごした。
あらゆることが自分にどうすることもできないことだと悟って、 諦めの境地に達することが一つの救いのように思えた。 ただ、その先にはあらゆる好奇心や努力を捨てた自分が見えた。 わたしはその2つを天秤にかけると、好奇心がのっている方が沈んだ、 ...少なくとも今は。だが、どうすればいいかわからなかった。
ここしばらく、小説を開いても視線を文字上に維持することができなかった。 面白くもなんともないネットの記事を見て、少しでも現実、いや自分の 無能から、逃れようとすることしかできなかった。日記も書けなかった。 同じことを繰り返し書いて、何になる?とにかく何も書けるようなことが 浮かばなかった。仕事や家事をしているか、そうでなければうつろでいるか、 そんな日々が続いた。
今はそんな心境を過去のこととして、客観的に眺めることができている。 ひどく悲しいことがあると、かえって頭がすっきりして、自分が何をするべきか はっきりとすることがある。この感覚を忘れないようにしたい。 ・・・うまく好奇心と諦観を両立する道があるはずだ。
「人間の分子も、第一義が活動するとよいが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに 活動するから厭になっちまう」(中略)
「血でもってふざけた了見を洗ったときに、第一義が躍然とあらわれる。 人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
夏目漱石,虞美人草、新潮文庫、より引用